Sさんは浪江町で飲食店を、自宅ではご主人のご両親が旅館業を営んでいました。
3月11日の東日本大震災、福島第一原発事故により、現在は埼玉県鴻巣市で家族6人で避難生活をしています。
現在Sさんは都内で仕事をしながら、同じく避難してきている方々がもっと情報交換や交流できる場をつくる活動に取り組んでいます。
◇Sさんの体験談
3月11日 あの日
あの日、娘の中学校は卒業式が執り行われていました。
そのため、2年生だった娘は午前中で下校しており、お昼を食べ、学力試験に向け勉強をし、3時からドイツから一時帰国している
哲平先生のピアノレッスンへ店から歩いて10分ほどのピアノ教室で練習中でした。
私はいつもは練習にも付き添うのですが、その日は主人の両親が病院に行っていたので、幼稚園から帰ってきた息子が店で両親の
帰りを待っていました。両親が自宅に戻ったという電話をもらい、主人が息子を自宅の山荘まで送っていき、すぐにまた店に戻り、
私は主人と交代で店を離れ、娘のいる教室へ急ぎました。
教室のすぐ近くのアパートで、停車中の車が少し下がってきました。
「あら?サイドブレーキをちゃんとしていないのかしら?危ないから急ぎましょう」と、その車を横目に…、教室の前につく寸前…
自分の車が自然に止まりました。
最初はマニュアル車なので、エンストかと思いましたが、車が大きく揺れました。
なにが起こったのかわからず、前方を見ると哲平先生がほうきを持って天を仰いでいました。
ますますなにが起きているのかわかりません…。
と思ったのはほんのわずかな一瞬です。わけがわからないまま、ハンドルを握りしめました。
というよりつかまっていないといられなかったのです。目だけがあちこちを見て、頭は働きません。
電線が大きく、大縄跳びのように揺れ、車は様々な揺れ方をしました。前後、左右、上下、旋回…。
娘のことが気がかりでしかたないのですが、ハンドルから手が離せないのです。それくらい傾きました。
揺られている時間は20分にも30分にも感じられました。
やっと地震が一度おさまり、車から降りると、間もなく娘も泣きながら戸外へ出てきました。
それも束の間、また大きな揺れが起こり、立っていられず、娘を抱き抱えしゃがみ込みました。
これも大きく、長かったです。後でこれは茨城県沖だったと知りましたが…。
哲平先生は即座に「原発は大丈夫かな…」と心配されました。
私は中越沖の地震対策を東電の方々がしていたのを知っていたので「大丈夫ですよ」と信じて疑いませんでした。
地震がちょっとおさまったので、震える娘のために先生の家へ娘のコートを取りに入りました。
足の踏み場がないほど、ありとあらゆるものが落ち、割れていました。冷蔵庫の中身は観音扉型のところも、
引き出しのところも全部飛び出していました。
娘がいた部屋は二階で、ドアが一瞬開かなくなったそうです。また、グランドピアノが動きました。電灯が落ち、
ガラスの破片が腕をかすめたそうです。グランドピアノが動いたのですからショッキングですよね…。
先生の家の子猫が見つかりません。地鳴りが聞こえました。
余震がずっと続いて心配なので、娘を先生に預け、店に戻りました。
橋に段差ができてしまって、車で通れません。迂回をするとあちこちの家の塀が倒れていました。
普通の地震ではないことを改めて感じました。
あるところではガス臭い…。なのに、車のエンジンをかけっぱなしでうろうろ騒いでいたり、みんなが平常心ではありません。
あちこちでパニックが起きていました。なんとか店まで運転し、たどり着きました。
店に入ると、水槽が動き、水があふれ出し水浸しです。レジのまわりもあちらこちらに書類などが散乱し、足の踏み場もありません。
主人とは安否の確認は取れました。そしてこんな状態なのでレッスンにもならないだろうから、主人と相談し、娘を連れてくることに
しました。地震直後に自宅とも安否確認が取れていました。今思うと奇跡的です。
先生のところへ戻ると、娘は先生の子猫を抱いていました。これが最後の別れとは思わずに…。
先生にとりあえず「また…」と言って分かれました。先生ともこの時が最後です。
店に戻って私と主人は片づけを始めました。余震がひどく、あちこちに割れ物があり危ないので、
娘は車の中で勉強をさせていました。(といっても勉強にならなかったと思いますが)
私たちは片づけをしながら、余震が来ると外へ出て…というのも何度も繰り返していました。
だんだん日が暮れてきて、余震があまりにもひどいこと、電話が全く通じなくなっていたことから、
しばらく普通の状態が来ないことを感じました。8時ころまで3人でひと通りの片づけをしました。
電気ポットでお湯を沸かしてカップラーメンを食べて、とりあえず帰ろうということになりました。
店の中は物置をそのままにはしましたが、あとはなんとか営業できそうなくらいまで片づけていました。
ただ、レンジが飛んで壊れたり、ガスはそとのボンベが倒れてから確認していないので、使えるかわかりませんが。
さて、帰ろうとして思い出しました。
ガソリンを帰りに入れて帰ろうとしていたので、ガソリンがありません。メモリはあと一つ。
ガソリンスタンドに向かいましたが、途中の道路が閉鎖されて行けないし、真っ暗でした。
役場前には車がたくさんありましたが、あとはひっそりしていたような気がします。消防団の見回りはありましたが。
コンビニは一か所だけ営業していました。
ガソリンを譲ってもらおうと思い、知人の家を何件か回りましたが、どこも真っ暗でしたので、あきらめて家に戻ることにしました。
家に帰る途中の道はあちこち陥没していたり、落石があったり、ドキドキの道でした。
家に着く1.5kmくらい手前で大きな落石があり、通行止めでした。
車を道路に停め、貴重品を持って真っ暗な山中の道路を親子3人で歩きました。
一人一つずつ懐中電灯を持って…。
20分ほど歩いて自宅に着くと、わが家は賑やかでした。
というのも一本道の道路なので、上の方も落石による通行止めで、道路工事をしていた方々は足止めを食ってしまい、
帰宅難民でした。「山荘高瀬川」はお客様を受け入れていたのです。
自宅に着いたのは22時を過ぎていました。幼稚園の息子はいつもなら眠っている時間でしたが、余震が頻繁で眠れずに
震えていました。添い寝をしてやっと眠ったのが23時頃でした。家の中のものをある程度片づけて、私と娘は24時頃眠りました。
余震がひどかったので、お風呂は入らずに、とりあえず横になりました。
この時TVをずっとつけていましたが、TVから流れてきていたのは、あちこちの火事の映像でした。
発電所の危機は知らず、津波の被害もあまりわかっていませんでした。
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